宝石のように星屑をちりばめた空は、所々に縮緬のような雲を散らして雲を囲っていた。

 雲で透かされた銀の真円は柔らかい光を更に照度を絞り、隠しているはずの姿をむしろ常日頃より
 
 もはっきりと見せている。

 その凹凸が見せる絶妙の陰の色づきさえはっきりと見える豊満な身体は、硬く身を閉ざしたアルテ
 
 ミスと言うよりも、円熟したセレネだ。



 そんな、西部の男が思うには些か興じすぎた事を思っている男は、その月を抱く夜よりも尚深い色
 
 の髪をしている。

 月の光も星の瞬きも寄せ付けないほど彼方宇宙があるとすれば正にその色をした――しかし宇宙の
 
 果てよりも遥かに甘い色合いの髪を薄く揺らし、彼は表情を一滴も見せずに水捌けの悪そうな荒野
 
 の土を踏みしめる。

 その様子からは、昼間の喧騒を帯びた雰囲気は微塵も感じられない。白い顔に明け方の空よりも透
 
 明な光を灯し口を噤んで、サルーンから投げ飛ばされる賑やかな光の間をすり抜ける。



 時折絡む女の細い指を素通りし、粘りつく物言いたげな視線を躱し、硬度の高い沈黙を貫いて歩い
 
 ていく。その後ろに付き従うのは、不吉な毛並みをした黒馬だ。

 普段の賑やかしい彼を知らねば、それは死者を連れ去る足音にも見えただろうが、生憎彼を知らぬ
 
 者はこの西部にはいない。

 それ故、冷然として夜の灯りの中を斬るように歩み去っていく男の姿は何かの予兆にも見えるのだ
 
 ろうが、己のその態度がそのように見える事を知り尽くしているのか、彼はその気になれば世界の
 
 縁から縁までを焦がし尽くせそうな自身の気配を、雲に隠れる月のように見えないヴェールで覆っ
 
 ていた。



 静寂だけをその背に負った男は、冷ややかな月の光を自分の熱として受け止める。彼の中で昼間の
 
 熱を残しているのは腰に帯びた黒光りするバントラインだけだ。

 月の光の先端を掠め去って、ちかりと一瞬輝いたその銃把だけが、彼が握り締めた時に映った熱を
 
 その表層にこびりつかせている。

 それ以外の部分――男の額から鼻筋までのラインは、バントラインと同じように月光を浴びても冷
 
 徹に白く縁取るばかりだ。



 昼間、砂埃の舞う荒野の真ん中、或いはその隅、もしくはそのどちらでもない何処かで、男は長い
 
 間追いかけている賞金首と、何度目かの対峙をしていた。
 
 その時は確かに内々から、震えるような熱の滾りを感じていたのだが、一度離れてしまえば仕留め
 
 られなかったという事実が臓腑を抉るように沸き立つ事はない。

 

 悔しくないわけではない。

 腹立たしくないわけでもない。

 その瞬間は怒鳴って、地団太踏んでやるくらい怒りを露わにする。

 しかし、仕留められない事に後ろめたさや悔恨、責任感を感じる事はない。

 その理由は、実は誰よりもよく分かっている。



 睫毛を上げて、そっと空を窺い見た。

 月がいよいよその身を隠そうとしていた。











 同刻。

 ゴールド・ラッシュが過ぎ去って寂れていく一方の町の中央にある、この町唯一の酒場で、砂色の
 
 髪が眼に落ちかかるのを払いのけて、一人の賞金首が酒を煽っていた。

 その様子を眺めやりながら、金の髪を高く結い上げた女が呟く。



「あの賞金稼ぎが近くまで来てるよ。」



 もしかしてもうやり合った後かもしれないけれど、と髪先に震えるように暗い明りを灯している。

 しかしそれに対する答えは、男が煽った酒の強いアルコール臭だけだった。

 

「そんな不毛なやり合い、止めればいいのに。」



 男が保安官だった事を知らない、その首に懸かった賞金が実は男が自分で懸けたのだという事を知
 
 らない賞金稼ぎは、延々と男を追い続ける。
 
 男がその胸を撃ち抜くか、賞金稼ぎが男を撃ち抜くかするまで、永劫に。

 彼らに救われた町としては、それほどに不毛な事はない。



「言ってやったらいいのに。」



 いつだったか、何回言ったかも忘れるくらいに、言った台詞。

 しかしそれに返されるのは、いつだって沈黙だった。



「何故?」


 
 ぽつりと、グラスを磨いていたマスターが、思いついたように不意に誰もが思っていた事を口にす
 
 る。

 何故言ってやらないのか、止めにしないのか、と。

 それは問い掛けと言うよりも、ほとんど独り言に近い疑問だった。

 しかし彼らの諦めにもにた予想に反して、男は青い視線をグラスに浸したまま、衣擦れと紛うほど
 
 の囁きで告げた。



「もし。」



 薄い薄い吐息に混じって吐き出される、紫煙のような声。



「心が壊乱した時に。」


 
 酒と葉巻の匂いで満たされた口元には、陰影の所為か微かに笑みのような皺が見える。

 それが歪むたびに、言葉が零れる。



「それを看過せず。」



 取り止めがないない声は、何処か遠くから響いているようだ。しかし、男はそれが誰かに聞こえる
 
 事を知っているような確信に満ちた様子で、少しでも物音を立てれば見失ってしまいそうな声で続
 
 ける。



「断裁する人間が。」



 切れ切れの言葉は、きっと男にとってはその意味が誰に理解されずとも良いのだろう。



「必要だ。」



 それが出来るのは、あの賞金稼ぎだけ。

 その為には、彼を殺さず、真実も告げず、しかし声にはならない叫びが聞こえるほどの距離を保ち、
 
 その変調を悟らせる必要がある。

 溜め息と共に吐き出した声は、おそらくあの男にしか聞こえないだろうし、理解もできないだろう。

 

 早く来てくれ、と叫ぶのは果たして理性ある自分なのか、それとも絶望の縁で喘ぐ魔王なのか、も
 
 はや定かではない。

 ただ、そのどちらもが間違いなく自分自身である事に苦笑して、男はグラスの底に残る淡い琥珀色
 
 の液体を飲みほした。











 
 多分、と額に落ちた黒い髪を一房かき上げて、男は思う。

 いつかあの男を仕留め損なった時に、いつまでたっても瞋恚に八つ裂きにされ、悲憤するような事
 
 があれば、その時、きっと自分達の関係は崩れ去るのだろう。

 その時になれば自分は決闘をあの男に申し入れる事もないだろうし、あの男の照準も、握られた銃
 
 ではなく、もっと苦い場所に向けられるだろう。そしてその時こそ、この荒野に血腥い風が、ディ
 
 オが齎したそれよりも、もっと生々しく紅い風が吹くに違いない。

 今はきっと、その時までの幕間なのだ。

 

 その幕間が長い事を自分は望んでいるのだろうか?

 分からない。

 ただ言えるのは、悪魔の哄笑のように幕が切って落とされた時、一人であの男に逢いに行き、軽口
 
 を叩き合える事は二度とないだろうという事だけだった。



 そして、あの男を殺す役割は、西部一の賞金稼ぎの冠を戴く自分だという事を、否応なく、理解し
 
 ていた。

 それをあの男も望んでいる事も。
 
 
 
 帳の裏に隠れた月を一瞥し、マッドは夜の幕の向こう側へと身を翻した。
 
 



 
 
 

    

 
 
 その夜